福山城沿革
福山城は,元和5(1619)年,徳川幕府の譜代大名であった水野勝成が「西国の鎮衛」の任を受けて築いた城で,以降,水野家5代,松平家1代,阿部家10代の歴代藩主に受け継がれ,幕末まで福山藩の政治の中心としての役割を果たし,城下町の形成とともに現在の福山市の基礎を築きました。
明治維新後,明治6(1873)年に廃城となり,天守,伏見櫓,御湯殿,筋鉄御門,鐘櫓を除いてほとんどの建物が取り壊されるとともに,本丸を除く二之丸,三之丸は民間に払い下げられました。更に,1945(昭和20)年8月の福山空襲により天守と御湯殿を焼失しました。
1964(昭和39)年,本丸と二之丸が国史跡として指定されると,指定地の本丸,二之丸を福山市が管理保存することとなりました。1966(昭和41)年には市制施行50周年記念事業として,天守,御湯殿,月見櫓などを復興整備し,戦災を免れた伏見櫓,筋鉄御門,鐘櫓とともに福山市のシンボルとして市民に親しまれています。
(史跡福山城跡保存計画より転載)
福山城は1622年に水野勝成が築城した、近世を代表する城郭であった。
以下wikipediaより
福山藩の成立と築城
元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、 徳川家康の従兄弟である水野勝成 が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。入封時の領地目録上は備後神辺城主であったが、神辺城はやや内陸にあり過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。
規模的には当時の日本5大名城に数えられるほどの規模で、入り江から船で直接荷を運べる構造でした。地下に残っていた石垣にはその名残です。
青塗りが堀の位置。1981年度 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
水野勝成の終焉
勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続いたが、元禄11年(1698年)5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となり、福山藩は一時的に天領とされる。福山城の受け取りは伊予国今治藩松平定陳と安芸国三次藩浅野長澄によって、城の管理は讃岐国丸亀藩京極高或によって行われた。このとき領内全域で検地が行われ、福山藩の石高(表高)は10万石から5万石増の15万石と査定される[出典 7]。元禄13年(1700年)、出羽国山形藩より松平忠雅が水野時代から5万石分の領地を削減された10万石で入封する。しかし、忠雅は10年後の宝永7年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と続くがその殆どが江戸住まいで福山に帰城することも希であった。また、阿部氏の時代は危機的な財政難が続いたこともあり、享保15年(1730年)には本丸御殿の奥向部分が江戸藩邸に移され、寛延3年(1750年)には二の丸下段の城米蔵が取り壊されるなど、必要性の薄まった施設は撤去されていった[出典 9]。
福山城での戦闘・幕末
慶応元年(1865年)、阿部家9代藩主阿部正方が第二次長州征伐参加のため石見国へ出兵することになり、その準備を行っていたところ、二の丸南側の櫛形櫓で火薬が爆発し隣接する鎗櫓、鉄砲櫓、番所が櫓内の武器と共に焼失した(これらの櫓が再建されることはなかった)[出典 10]。この火災は閉門後であったため死者は番人1名に留まったが城下は大混乱に陥ったといわれる[出典 11]。その後、長州軍との戦いは完敗し、兵を引き揚げた福山藩は幕末の動乱を傍観していたが、第二次長州征伐から3年後の慶応4年(1868年)1月9日に西国における幕府側の重要な拠点であった福山城が初めての攻撃を受けることになった。
明治維新~福山大空襲
明治維新後の廃藩置県により福山藩は福山県となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。
明治6年(1873年)の廃城令により廃城となり、ほとんどの施設は民間に払い下げられ、建物は建築資材として売却・解体され天守、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓、などを残すのみとなり、本丸を除いた敷地のほとんどが売却され宅地や農地などに転用された。
堀の大部分は、官有のレンコン畑として利用されていたが経営難となり、内堀は明治24年(1891年)に民間に売却され、昭和初期までに福山駅の拡張などにより完全に埋められた。
外堀も随時売却され、明治24年(1891年)までに山陽鉄道の線路敷設のため南部の東西が埋められ、東南部は。大正3年(1914年)に両備軽便鉄道駅舎(両備福山駅)の建設により埋められた。 他の堀も工場や宅地などに姿を変え、最後まで残った北西外堀は昭和10年(1935年)に福山女学校(現:葦陽高校)の運動場として埋め立てられた。
本丸は、明治7年(1874年)に歴史的記念物の破壊を惜しむ[出典 1]周辺自治体の誓願により下賜され、明治8年(1875年)に「福山公園」として整備されたが、傷みの進む天守の修復費用を確保できないことなどから、明治17年(1884年)に広島県へ返納された。
ところが、県は天守の修復どころか公園の維持費すら出し渋ったため、天守の破損は進み園内も荒廃した。これに対し地元有志は月見櫓跡に、貸席「葦陽館」を建設するなど活性化策を講じるがうまくいかず、見かねた福山町は県に公園の移譲を請願し、明治29年(1896年)に認可され、明治30年(1897年)に天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿の修理が行われた。
昭和になると福山城の文化的価値が再評価され、昭和6年(1931年)に天守が、昭和8年(1933年)には伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に、昭和11年(1936年)には本丸が史跡に指定された。二の丸の南側は大正4年(1915年)に所有者の植樹した桜が咲き乱れるようになり当地方随一の桜の名所として市民に親しまれた[出典 1]。
しかし、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月8日、米軍の空襲(福山大空襲)により天守、御湯殿、涼櫓など城下に残る多くの文化財と共に焼失した
戦後の復興~現在
戦後、焼け野原となっていた福山市街は区画整理により大幅に区分と町名を変えた。本丸はしばらく荒廃した状況が続き二の丸は住宅が徐々に再建され三の丸は再び市街化していった。
昭和39年(1964年)2月7日に、本丸・二の丸が国の史跡に指定され民有地であった二の丸は買収されることになった。
昭和41年(1966年)に、福山市の市制50周年記念事業として天守、月見櫓、御湯殿が復興される。
昭和46年(1971年)に、小丸山の大半が市による造成で破壊されるなど開発も進められた(#小丸山を参照)。
昭和48年(1973年)に、市民らの寄付により鏡櫓が、昭和54年(1979年)には福山市により鐘櫓が復興された。
昭和63年(1988年)頃から、三の丸西側はふくやま美術館や広島県立歴史博物館が建てられ「文化ゾーン」として整備された。ただ、文化ゾーン内に埋没する外堀が復元されることはなく、逆に小丸山は美術館建設に伴う周辺整備により更に改変され、博物館建設地で発掘された遺構も大部分が撤去されるなど遺構の破壊された。
平成17年(2005年)、三の丸のあったJR福山駅北口の分譲マンション建設現場で外堀の石垣が発掘され、保存の是非を問う声も出たがマンションの建設は継続され、撤去された石垣は市内吉津町の実相寺の石垣に再利用された[出典 12]。その後も、同様の問題が発生する懸念が指摘されていたが、駅周辺で駅前整備計画や民間の都市再開発計画が進められた。
平成18年(2006年)に、住宅地のあった二の丸に隣接する三の丸東側を福山市が用地買収し公園として整備事業が行われ福山駅北口に面する二の丸石垣の直下は、内堀の近接していたことから親水施設が造られたが、本来の内堀とは規模・形状は全く異なっており、工事により本来の遺構を破壊した可能性も指摘されている。
平成18年(2006年)2月13日、日本100名城(71番)に選定された。 8月、福山駅南口周辺から駅前整備に伴う発掘調査により三の丸御水門周囲の石垣が出土し羽田皓福山市長は、できるだけ計画変更を伴わない保存、活用を探るとして、遺構の破壊が更に進む可能性が高まった[出典 13]。
天守等の復興から約40年間放置されていた福山城の遺構(二の丸帯曲輪西側)を整備しようとする動きがあり、平成19年(2007年)度から調査が開始される予定となっていたが、2007年度を過ぎても進展のないままとなっている[出典 14]。
2007年3月、福山駅南口整備に伴う福山城遺構の活用案、掘り出された石垣を使って櫓台を模した小規模な高台を設置するという案が提示され遺構は消滅することが確実となった[出典 15]。しかし、これには市民による反対運動が起き協議が行われている。
福山城にみる歴史ロマン
http://www.fukuyama-kanko.com/topics/001697.html