お城と日本人 -木造化論争の行方-

建築ジャーナルより一部抜粋

 

新幹線の窓から天守が見える。と ころが、そのお城に行ったことが ないどころか、どこの市にあった のか思い出せない人も珍しくな い。福山城は、不思議な城だ。

 

重文伏見櫓とコンクリートの復興天守

江戸幕府の成立後、外様大名の 多い西日本に現みを効かす(西国の鎮衛)ため、徳川家康が、いとこ の水野勝成を備後に封じ、1622 (元和8)年に勝成が福山城を築い た。一国一城令も出た後、近世城郭としては最も新しく築かれた城である。

 

現存する伏見櫓は、勝成が 甥にあたる2代将軍秀忠から伏見城の櫓を拝領したもので、桃山様式の古い様相を留めている。広島原爆から2日後の空襲でも焼け 残り、戦前は国宝に指定されていたが、現在は筋鉄御門と ともに国重要文化財になっている。

国宝指定されていた天守は、空襲で焼失。その後、福山 市制50周年記念事業の目玉として1966(昭和41)年に鉄筋 鉄骨コンクリート造で復興された。元は五重6階だったが、 復興天守は五重7階になっているほか、上の階ほど幅を狭 くする遮減率が小さいのが福山城の特色なのに、見栄えが いいように遮減率を大きくするなど原形どおりの復元とは言 いかねる点も少なくない。

 

枝廣新市長が福山城整備を宣言

市を挙げて復興したにもかかわらず、お城は「封建支配の象徴」だとして顕彰に反対する動きが出て、福山城は長らく放置されてきたのが実情だ。

それに対し、昨夏の市長選挙で初当選した枝 廣直幹市長が、福山城を福山の顔にふさわしく 整備したいと宣言。市民の間でにわかにお城の 整備への関心が高まった。さっそくJR福山駅の 名を、福山城駅と変えてもらうようJRに要請すべ きとの質問が市議会で出た。

福山城は、1964(昭和39)年に、国史跡に指定 されているにもかかわらず、未だに保存活用計画 もない。10年前、JR福山駅前に地下送迎場を つくる工事で、外豪の石垣、入江につながる「お 水門」の石垣が出た際には13万筆もの保存を求 リ、 市長選挙の争点になったこともある。

枝廣市長が打ち出した方針に基づいて市教委 では50年余り経つ復興天守の耐震診断に乗り 出すことになった。また、学識経験者による委員 懇談会を設け、2017年度末までに保存活用計画 をつくる一方、築造400年の2022年、入府400 年の2019年に向け記念事業を企画する委員会 を立ち上げるなど矢継ぎ早に対策を打ち出した。 こうした会議で、木造化推進論者の三浦正幸広 島大学教授は、名古屋城 に続いて福山城も天守復元化を と訴えた。 それに対し枝廣市長は耐震診断の結果も待たなければと慎重論を唱えた。水野家現当主の勝之氏は、木 造化は将来の課題、今から研究・議論を重ねるのは必要か もしれないが、当面は資料に基づいた正確な模型をつくるべきと現実的な対応を主張した。

 

城周辺の整備、 駅前活性化と一体整備が課題

市民の関心が、天守の整備、木造化に集まるのは当然か もしれないが、 お城は天守だけから成り立っているのではない。崩れたままの石垣も城内に放置されている。全く残っ ていないお濠の一部復元、 また、東京の神田上水と並んで 特筆される上水が、水路として今も利用されているなど周辺の環境整備を抜きにはできない。特に福山城は城内をぶち抜く形でJRが走っでおり、地盤 沈下が続く福山駅前の活性化にも枝魔市長は取り組んで いて、2017年度末までに基本方針をまとめる予定だ。こう した駅前の整備と、福山城の整備を一体として進めること ができるかどうか、福山市にとって大きな課題だろう。

枝廣新市長のもと福山市が名実ともに備後の中核拠点都市とし て発展しもいくために、歴史遺産も生かしたまちづくりを進 めることができるかどうか、福山城の整備のあり方が問われ ている。