水野勝成とはどのような人物?

初代福山藩主 水野勝成とはどのような人物であったか。あまり知られていないが間違いなく戦国一の最強武将だった。その破天荒さには驚かされるばかり、知れば知るほど好きになる人物です。大河ドラマの主人公にこれ以上のキャラクターはいないでしょう。何故取り上げられないのか不思議なほど魅力的人物です。

水野勝成
幼名 国松、藤十郎
実父 水野忠重
実母 妙舜尼
藩主経歴
・三河刈谷藩主
・大和郡山藩主
・備後福山藩主
主な戦歴
・高天神城の戦い
・小牧・長久手の戦い
・関ヶ原の戦い(大垣城攻め)
・大坂冬の陣
・大坂夏の陣

 

武勇伝&エピソード
・16歳初陣で15も首級を上げる
・19歳2000VS10000圧倒的多数を撃退。わずかの手勢で奇襲をかけ北条勢を大混乱に、首級三百を道に吊るし、敵の士気を完全に削いだ。
・兜なしで一番首
・21歳で父の部下に悪行をチクられ切り捨てる。激怒した父、奉公構(業界出入り禁止)のお触れを出す。
・15年間放浪の身となる(戦国最強のフリーランス、虚無僧、姫谷焼きの器職人)
・秀吉死後家康の元へ。奉公構の身なので勝手に門番などしていたがすぐバレた。
・家康が強引に水野親子を仲直りさせる。
・和解後まもなく父が石田三成の手のものに暗殺され刈谷3万石を継ぐことになる。
・関ケ原の戦いで大垣城を攻め落とす。勝成は従五位下に叙任され、「日向守」の官位を受ける。
・大阪夏の陣では息子と(宮本武蔵が息子を護衛)参戦し軍の最高責任者でありながら先陣に立ち一番乗りを果たし家康に怒られる。齢51歳
・破天荒が一転、福山で名君
・75歳で島原の乱へ息子、孫と三代で参戦
・88歳で没

以下刈谷の歴史と文化より転写

1 勝成誕生 ~父・忠重との確執~

水野勝成は永禄7年(1564)に水野忠重の長男として生まれます。母は都筑右京進吉豊つづきうきょうのしんよしとよの娘で、幼名を国松・藤十郎・六左衛門といいました。於大からみて勝成は甥にあたり、家康からは従兄弟にあたります。
天正12年(1584)の長久手の合戦では父・忠重は秀吉の甥秀次隊の襲撃を提案して認められ、丹羽氏次と共に先方として秀次隊襲撃の中心的役割を果たしています。一緒に参戦した勝成は父の軍勢を離れて先駆けし、一番首をとるなどの武功をたてました。このあと蟹江城合戦にも戦功をあげ桑名へ行きますが、桑名在陣中に忠重は勝成を勘当してしまいます。これは忠重の寵臣富永半兵衛が勝成のことを忠重に讒言して親子の仲を悪くしたので、富永を斬って出奔したといわれています。出奔後は秀吉に仕えるようになり、天正13年9月1日には攝津国豊島てしま郡内で728石の知行を許されています。ところが、天正14年に忠重が秀吉の直臣となったことにより勘当された父と同じ秀吉の家臣となることができず、勝成は浪人となってしまいます。翌年肥後熊本城主佐々成政に仕えたあと、新たに肥後に入った小西行長の家臣となっています。その後は備後国とも(現広島県福山市)ヘ来て、備後国内を流浪していました。

2 青年期 ~父との和解と別れ~

慶長3年(1598)3月、勝成は伏見城で徳川家康に謁見し、そのとりなしで忠重に対面して勘当を解かれます。勘当されたのが天正12年ですので、実に14年もたっていました。同年8月に秀吉が亡くなると、勝成は家康と石田三成の対立が激化したことを知り、伏見に上って密かに家康の警固を心がけていました。
ところが、忠重は慶長5年池鯉鮒で加賀野井秀望かがのいひでもち(重茂・重望・秀重ともいう)に殺害されてしまいます。この時勝成は、家康に従って上杉景勝討伐軍の一員として参加し、下野国小山(現栃木県小山市)にいました。忠重死去の報をうけた勝成は家康の許可を得て直ちに帰国しました。家康は国許の家老衆に宛てて忠重の不慮の死を弔うとともに、勝成の襲封を知らせて、替わらぬ奉公を命じました。刈谷に帰った勝成は、父忠重の死を悲しむ暇もなく出陣の準備にかかります。まもなく天下分け目の戦いといわれる関ケ原の戦いが起きます。

水野忠重の画像
水野勝成の父 水野忠重(楞厳寺蔵)

3 刈谷藩初代藩主 水野勝成

関ケ原の戦いで東軍が勝利し、三河国では支配体制が大きく変わりました。刈谷城は水野勝成が3万石で領することになりました。岡崎藩や吉田藩においても藩の成立をこの関ケ原の戦いの恩賞後である慶長6年2月とされているので、刈谷藩主としての水野勝成は同じ慶長6年2月とするのが正しいものと思われます。したがって、水野勝成が襲封しゅうふうしたのが、慶長5年7月ですので、この時点では刈谷城主で、慶長6年2月から刈谷藩主となったというべきでしょう。
関ケ原の戦いに出陣した勝成は、戦いの主戦場にはいなかったため恩賞は与えられませんでしたが、翌慶長6年5月11日付けで従五位下日向守に叙任されました。

4 大坂の陣参戦 ~我は「鬼日向」なり~

慶長19年に大坂の陣がはじまると、勝成は長男勝重(のち勝俊)とともに参戦しています。大坂の陣では、勝成は勝重とともに住吉口の家康の陣所の後備となりました。慶長19年の冬の陣ではめざましい活躍をすることはできませんでしたが、翌元和元年(1615)の夏の陣では、大和口の先鋒の大将として出陣し、5月6日に河内国誉田こんだ(現大阪府藤井寺市)で豊臣方の後藤又兵衛基次の軍勢と激戦し、7日には船場の戦いで明石掃部介かもんのすけの軍勢を破り、城内に攻め入って桜門の一番乗りの旗を立て、敵の首97を討ち取ったといわれています。これらの武勇をたたえて、勝成は「鬼日向」ともいわれました。

5 郡山・福山へ ~乱世の猛将・治世の名君~

大坂の陣での手柄に対して、厚い恩賞が与えられました。元和元年(1615)7月21日付けで3万石を加増され、大和国郡山(現奈良県大和郡山市)へと転封し、6万石を領することになりました。郡山は京・大坂に近く、政治的・軍事的にも枢要な地でした。
しかし、郡山城は関ケ原の戦い以後廃城同然の扱いで、勝成自身もしばらくは洞泉寺に仮住居し、後に三の丸に仮宅を構える程度で、多くの家臣たちもあちこちに小屋掛けし雨露をしのぐ有様であったといわれています。城郭も荒れ果てていたので、石垣や堀の修築は幕府の直轄のもとに行われ、二の丸台所櫓、本丸御殿、三の丸家中屋敷などの家作は勝成の手で普請が行われました。
勝成は元和5年8月4日、備後国福山へ転封となります。4万石加増されて10万石で福山へ入りますが、当時山陽地方は外様大名で占められており、同年福島正則が改易され、正則の旧領が2分され、安芸国には紀伊国より浅野長晟ながあきら、備後国には水野勝成が入封されました。家康秀忠は福島正則の改易により、家康の従兄弟で武将として誉れの高い勝成を福山に入封させることにより、隣接諸国の外様大名に目を光らせ、さらにここを足がかりとして、九州へ譜代大名を送り込み、大名支配を拡大強化しようとしました。当時は慶長期の城郭及び城下町建設が終わりましたが、勝成は入国後領内をくまなく巡視し、瀬戸内海に面し、軍事・政治・経済上もっともふさわしい場所として現在の福山城の位置に城を建設しました。そして、同8年8月28日に江戸時代最後の城郭として完成し、名を福山と改め、福山藩が成立しました。

明治初期の福山城
現在の福山城

6 晩年 ~鬼日向、88歳にて逝く~

その後、寛永16年(1639)閏11月16日には藩主の座を辞し、家督を長男・勝俊に譲ったあとは悠々自適に生活しながら勝俊の治政を助けました。やがて剃髪して宗休と号しました。また、池溝の開削や干拓、新田開発などに努めました。
勝成は文学が好きで、特に俳諧を好みました。また能楽も好み自ら伏見城内にあった秀吉遺愛の組立式能舞台を拝領して演能したとも言われています。慶安4年(1651)3月15日に88歳で亡くなり、法名は徳勝院参康宗休といい、賢忠寺に眠っています。